舞台オスロ 2021/02/06.17

舞台オスロ
めちゃくちゃおもしろかった。シンプルに舞台が良い、って最高なことだ…って泣けてしまった。シリアスだけどテンポが良くて、適度にドライで、心地よい緊張感があって、こんな重厚な舞台に河合くんが軽やかに立っていたのすごかった。パレスチナイスラエル問題についても改めて学ぶ機会になったし、今の戦争を見ていてもこの舞台のことをちらちらと思い出してしまう。
雪を見たことのないロンくん、かわいかった。あと坂本さん…足が2メートルあってめちゃくちゃかっこよかった。

えびコン 2020/12/24.25.26

ちょっと記録が途絶えた。

ここからはインスタに文章らしきものが残っていた日の日記を載せておく。

 

A.B.C-Z 1st Christmas Concert 2020 Continue?


もうめちゃくちゃに危ない時期で、オタクになって10年以上経つけど、はじめて持っているチケットを諦めるという決断をした。コロナ禍のコンサート、こういう経験もするんだなと思った。


初日を見送ってそのあとは問題なく参加できて本当に良かったんだけど、でもあまりにもエンタメが久しぶりすぎて、感動して大変なことになってしまうだろうなとずーっと緊張しすぎてたんだけど、どちらかというと心が感動する方法をすっかり忘れていて、どうやって気持ちを動かすんだっけ?となり割と呆然としてしまった。
あとやっぱり体調的にはまだ密閉された人混みがかなり難しくて、色んな意味でほんとうに今までにない心地のコンサートになった。だからこそ配信があって家で落ち着いてみられたのよかったな。チューインラブ、可愛かったなあ…

命の原動力 2020/07/21(火

じっとりと暑い日、カラッとしてはいないけど晴れている。
昨日、久しぶりに電車に乗って観劇をして友だちと散歩しながらたくさん喋って簡単に食事をして、というかつての世界では当たり前だった日常をすごしたせいか、脳と身体が猛烈に疲れたようで、昼過ぎまで眠っていた。こういう疲れ方自体なんだか懐かしいし、残念ながら以前より負担が大きくなっているなと感じる。楽しい、嬉しい、面白い!と激しく感情が揺さぶられることは、たとえそれがポジティブなエネルギーであっても人間にとっては「ストレス」になる、というのは本当で、ここのところ静かに自問するような閉じた日々ばかりを過ごし続けていた自分にとってはかなり消耗したようだ。でも本当にたのしかったんだ。

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結局疲れて何もできなくて、こうやって一つ大きなことがあるとたとえそれがたのしいことだとしてもこんな風にクタクタになってしまってなんて自分は情けないんだろ、と布団の中でやる気を出せずに苦しんでいた。けど、うーん、この今の時期はこれでもいいかもと何人かのブログをつらつら読んでいて心を立て直す。こういう時に、強すぎない力で背中を押してくれる、というかさすってくれるようなものに出会えると本当に救われる。
で、安易なわたしは、立て直した心ですぐにこう思う。わたしもこういう、小さな力をどこかに届けるものをつくりたい。
そこでふと気付くのは、大学生の頃、自力で生きていけるわけでもなく、何かおそろしいほどの才能があるわけでもなく、学生としてまじめに学びに没頭できるわけでもなく、はやく社会に出たくて、ただひたすらに「何かしたい」「何かになりたい」と思いながらも毎日何もできずにすごしていた日々を思い出す。もしかして30代も後半に突入しつつある今、わたしはあの頃とまったく同じ、まるで自分の心が定まらない学生のような気持ちで、いまだすごしているのかと。
びっくりだ。
えっ10年以上も時を経てもまだ「何かしたい」の段階なの?って、いつもならここで批判的で否定的な自分が顔を出し、今の自分を責め始めるところだが、今日はちがった。あの痛々しくてフレッシュな感覚をまだ持ってたの?それってとても若い力って感じがして、力強くない?とワクワクできたのだ。わたしにはまだちゃんとやってみたい「何か」や、なりたい「何か」があって、そしてそこに到達していないことに、まったく満足していない。まだしつこく「飢え」がある。これって、未来に向かう希望の力だなと、素直に感じたのだ。そしていつになってもそれは手遅れでも、不可能でもなく、一生を賭して続けていくことに他ならない、命の原動力になりうるものなんだとなんとなくボヤッと確信してしまった。

わたしにはまだわたしだけの時間の流れと、日々の暮らしの奥底に流れる詩や歌や自然がちゃんと生きているって思えた。

毎日、今を全力で生きて、会える人には会って、伝えたいことを伝えて、瞬間を見逃さずに、無駄のない日々を。そのモードは一旦休もう。刹那に夢中になってすごした大きな日々に拍手を送って、これからはたぶん、小さな自分の日々を時間をかけて過ごしていくのが心地よさそうだ。わたしはわたしのペースで、いつかこれだという命の形を掴むまで、毎日同じようなことに悩みながらそれでも生きていけるんだと、そう思った日だった。

娯楽の姿 2020/07/20(月)

コロナがこれまでの日常をベットリと塗り替えてしまってから初めての「観劇」だった。少なくとも月に一度は何かしらのコンサートや舞台を生で観に行く、のが当たり前だった暮らしをかれこれ10年以上続けてきた。こんなに現場が無い春は、夏は、オタクになってから初めてだった。
推しグループA.B.C-Zのセンターであり最年少の橋本くんの舞台へ。ジャニーズの中でもコロナを経てから初めて開催される、トップバッターの舞台だったと思う、確か。
人が集まる劇場へ向かうのは半年ぶりだろうか。1月に観た河合くんの舞台以来。コロナ以前の世界で最後に観たその舞台は、奇しくもこの日と同じよみうり大手町ホールが会場だった。コロナ以前と以降が不思議な繋がり方をする事実に、久しぶりに観る生のお芝居に、いつもより緊張して興奮してなかなか寝付けなかった。ずっと家にいる生活をしているので、電車である程度の距離を移動するのも久しぶり、劇場に向かう電車にはちょうど学校終わりの高校生、小学生がたくさん乗っていてビビってしまう。学生たちはもう変わらずこうして毎日を過ごしているのだな。

「劇場に向かう感覚」自体がものすごく久々で、もはや懐かしい。大手町ホールはぜんぜん馴染みの場所ではないけれど、遅刻しないように忘れ物がないようになどと気分を引き締めて、計画的にトイレに行って、チケットを何度も確認して、いざ現場へと近づいていくこの緊張感に、ああこの空気すら楽しい、これも含めて観劇だったよなあなどとしみじみする。

 

これまでと大きく変わった劇場の様子もせっかくなのでメモしておこうと思う。

会場に着くと、あれ?時間を間違えたか…?っていうくらい、開演前にしては人が少なくておどろく。会場に向かうエスカレーターの前にはフェイスシールドとマスクをバッチリつけた劇場のスタッフが数名待機。前の人と間隔をあけてならび、案内された先でスマホの画面による体温測定(これは映画館でもやった)、手指のアルコール消毒をして、靴底の消毒もした。でこぼこしたマットを踏むと消毒液が靴底に付く仕組みらしい。すごい。
チケットのもぎりも自分でしてからスタッフに見せて、半券を箱に入れる。絶対にちぎってはいけない点線を自分でむしるのはなかなかにスリリングだった。もう一人のスタッフは袋に出来るだけ触れないように配慮した持ち方で、パンフレットをわたしてくれた。とても手厚く慣れている対応。とても安心感があった。
ロビーでおしゃべりをしている人は一人もいない、トイレもすいすい。開演5分前くらいにやっと着席すると、半分の人数に調整された客席はシンと静か。市松模様に距離をとって空席を作ってある座席はかなりゆったりとした空間があった。飛沫を飛ばさないように出来るだけ喋らないように、とアナウンスがあった通り、おしゃべりをしている人はひとりもいなかった。いつもならサワサワともう少し大勢の人間がいる気配が劇場には充満しているものだが、まるで全員スパイのように息を潜めているという感じだった。雰囲気としては、期待と不安の巨大な塊が全員の口を封じる、初日の空気に似ているような感じだった。

舞台は、個人的な感覚かも知れないが、今この時期に見るのに最適という感じだった。ギターとパーカッションとボーカルのミニマムな生演奏と、役者は2人だけの朗読劇。図書館司書の橋本くんの元に、自分に合った本を教えてほしいと訪れた男。彼のリクエストは日本文学。舞台のタイトル通り「日本文学の旅」は古事記に始まり、平安、鎌倉、、昭和、現代へと続く。たくさんの物語から抜粋された、見事な言葉の数々。日本語の音の響きがとても心地よく、文学の歴史を駆け足で巡る構成は何かオチがあるわけではないけれど、良く響く楽器のような役者の声と、圧倒的な技量で繰り出される音楽にのせて、ひたすらに美しい言葉を浴びるというのは、全身が浄化されるような不思議な感覚だった。
物語を紡ぐ言葉、歌のような言葉、人から生み出された言葉の数々はどれもどこか内側を向いていて、閉じこもった日々を過ごしていた自分にはとても心地よく響いた。「学生時代に学んだ古文」から広がりを持つことのなかった、枕草子や徒然日記、万葉集などがもつ言葉の形がいまはじめての響きとして自分の奥底に届いた感じがした。知識や学問以外の文脈で文学を感じとるのは、この時期、このタイミングでなければできなかったことかもしれないなと、思った。読んだことのない物語について、興味をそそるCMみたいな役目もあった気がする。蟹工船を読みたいなと思った。派手な演出があるわけでもなく、壮大な物語や、スペクタクルがあふれているわけでもない、それらは全て本の中に潜んでいる大きな世界としてそこにあった。自分の思考の索引を表層に浮かび上がらせてくれるような舞台だった。図書館司書の役目として完璧ではなかろうか。

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帰り道、一緒に観劇した友だちと地下道をずっと歩いて、大手町から日比谷まで行った。馴染みの日生劇場やシアタークリエの姿を確認して、今年はもう中に入ることはないのかなあと、不思議な気持ちになった。せめて入り口の様子だけでも確認できて嬉しかった。

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そのあとすぐ近くの日比谷公園で群生するユリの花を見た。まっすぐな茎の上に、もっさりと花をつけた大量のユリは、むせかえるような香りを放っていた。それは舞台の初日、ロビーに溢れかえる花かごの香りと同じだった。舞台やコンサートに行ったら必ず写真に撮る、お祝いの花々、そんな景色も随分見ていない。偶然にも日比谷公園で「初日」の喜びを思い出して、友だちとはしゃいだ。

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気づくと、日比谷の角にあったダンスホールが入っていた素敵な形のビルが無くなっていてかなしかった。東宝ツインタワービル、という名前だったようだ。素晴らしい建築だったのに。他にも無くなった場所がないか確認しながら馴染みの街を歩く癖がついてしまう。

それから、日生帰りによく行っていたパスタ屋でいつものメニューを駆け足で食べて解散した。こうしてかつての日常をすごしてみた時、感染する怖さもあるが、人に会うことや、出かけることがシンプルにめんどうくさい、と思うようになってきてしまった自分にも気付く。家にいるばかりでもなんの苦痛も感じない、もともと閉じこもりたい衝動が強かったたちなので、なるようになった当たり前の形という気もするのだが、これが良いことなのか悪いことなのかがよく分からない。だけど久しぶりに味わう「趣味」の時間は思っていた以上に自分が求めていたものでもあって、行動の端々に「楽しい」「そうだこんな感じだった」があふれていて、わたしはこういうことを細く長く一生続けていきたいなと真剣に思った。引きこもりながら、たまにこうやって外に出る。きっと最低限の趣味だけが残っていくのだろう。残っていく?いや残れるのか?この文化たちはこれからどうなっていくのだろう。しかるべき形で生き残れるのだろうか。たぶん、わたしにはついていくことしかできないけど、どんな形であれ、ずっとついていきたいと願うばかりだった。

エンタメよ、どうかしなないで。

 

良い夏の一日だった。わたしにとってたぶんこれが2020年の夏の形として記憶に残るんだろうなと思った。

日曜劇場 2020/07/19(日)

久しぶりに晴れる。風が気持ち良い。アトリエの整理をして雑務。ちょっとやってみようと思うことがあり、チャレンジする意欲が湧いている。珍しい。

 

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夫の仕事休憩のついでに散歩しようと、コメダに行く。おやつ程度にしておこうと思っていたのに、誘惑に負けて、ちょっと早いけどもう夕飯にしてしまおうかと、みそカツサンドや念願のコメチキを食べた。日曜のコメダはわりと満席だった。夫とちょっとおしゃべりなどをして帰る。

自宅でパソコン作業の続きなどを片付けて、今日から始まるドラマ「半沢直樹」の続編をみた。春クールの新ドラマだったはずなのでとても待ちに待ったオンエア。今年1月に某所でセリフ入れをする堺さんを目撃していたのもあって、なんかとても長かったような短かったようなもう夏か…という、常にタイムスリップしているような2020です。市川猿之助香川照之のいとこ共演がはげしくて爆笑してしまう。歌舞伎度の高い伝統芸能のような勢いがあって最高だった。半沢さんの、悪いものを悪いとはっきりぶった斬る姿にみんなスカッと夢を見ていたのがもう7年前。今もその世の中の気持ちは変わってない、というかむしろ半沢を求める気持ちは強くなってるんじゃないかと、感染が拡がり続ける中、国会は閉会し1ヶ月もなんの会見も開かない首相やらなんやらに思いを巡らせるなどした。

そのあと新劇の巨人の続きをみて、ついにシーズン1を完走した。これはぜったいに最後までネタバレを踏みたくないやつだな。めちゃくちゃ面白い。ウルトラヒットの人気作品って本当にちゃんと理由があるよなあと痛感する。アニメ版も完結したと思い込んでいたけれど、この秋?に最終シーズンをやるみたいで、なんというタイミング。リアルタイムでヒットコンテンツを追いかけられるなんて後追いばかりの自分にしてはとてもレアだ。嬉しいな。実写もやってたんだっけ?と調べたらエレン役は春馬くんだった。そっか、そういえばそうだったような気がする。

音楽、の日 2020/07/18(土)

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すごく、たくさんの気持ちがある日で、今日はうまく書けない気がする。

音楽の日A.B.C-Zが出るのでとても楽しみに見ていた。これまでの存在意義を取り戻したかのような音楽の日、いつもより何かグッとくるものを感じた。あと2組でA.B.C-Zというところで、Twitterがざわつき、信じられない訃報が入る。混乱する頭で、見たことのないスーツを着てアクロバットをたくさんするA.B.C-Zの素晴らしいパフォーマンスを見ていた。あんな白いスーツが似合うのは五関くんが怪盗キッドだけだ。そのあとすぐにテレビでも速報テロップが入る。flumpool君に届けを歌っていた。とにかく信じられない、というショックが大きかった。

驚きとショックの混乱の中、こういう時のメディアの報道スタイルに猛烈な不信感と憤りを感じる。人の死を数字かせぎのエンタメにするな。わたしでも知っている報道のガイドライン、ひとつも守れていないじゃないか。
SNSでわたしがぐったりとしやすくなるのは、早い者勝ち言ったもの勝ちview稼ぎの欲望、がブワッと溢れ出る側面かもしれない。長く続けていたオタクアカウントで辟易してしまった「嫌な感じ」と、ネットニュースやメディアの振る舞いがすごく似通っているように思った。ちょっと話はずれているかも知れないけど、要するに結局ただの一般個人の集まりと、プロメディアが大差ない感覚で動いているのが見えてしまって、ものすごくぐったりしてしまった。人の命に関わることについても、ただのスキャンダルも、エンタメ情報も、扱いは同じかと思うと、もうズタズタな気持ちになる。

夜に、テレビで放送していたコンフィデンスマンJPの映画を見た。ドラマも未視聴だったしこういう日本映画ってほとんど見たことなかったけど、面白かった。今日亡くなった彼が、キーマンだった。見終えてから音楽の日の続き、主にジャニーズをまとめてみた。スノーマンにひーくんが帰ってきた、なんて華があるんだろう。めちゃくちゃにかっこいい。嵐は、わたしが個人的に思い入れがあって大好きな曲を2曲、しかも振り付けもオリジナルで歌っていた。一番好きな時代の嵐がそのままの姿でまだここにいることに、涙がとまらなくなる。嵐の形をしている嵐、無くならないでって思いかけたけど、ちゃんと止まることで生きていけるならそれ以上のことってないのだろうと思った。

なんだろう、本当に、みんな生きていてほしい。

こうして自分の好きな人たちを見ていつも思うのは、彼らがみんな、誰も悲しかったりつらかったりしないでほしいっていう勝手な希望ばかり。あの場所に縛り付けているのは他ならない自分かも知れないという恐れと共に、身勝手な愛を押し付けている。わたしはずっとこの気持ちにまみれて生きている。こんなこと言う資格も覚悟もやっぱりないのかも知れないけれど、みんな自分の思う通りのしあわせになってほしい。そればかりが胸にある。

いま、好きな人に手紙を書こうと思ったけれど、それが呪いになることもあるって思うとなにもできない。どうかどうかしあわせでいてほしい。

明け方の地球 2020/07/17(金)

小雨、気温が低い。22度くらい。眠い日々は続く。
整体へ向かう。半年のコースで、残すところあと一回。最近また腰は痛くなってきてしまったが、原因と対処法がわかるので半年前より状況は悪くはないはず。そういえば、もう結構前からだけど日中の人出が減った、というか元に戻ったなと感じる。自粛期間中に子供たちが狂ったように遊んでいた公園にはもう人影がない。普段人が多い場所から人が減り、普段人が少なかった場所には逆に多くいた、という奇妙さがコロナの春だったのだなと、7月にしては寒すぎる昼間に思う。

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日中眠い割に、夜はうまく眠れなかったので、起きて居間で一人テレビを眺めていた。明け方4時頃にはじまったNHKの「プラネットアース」という地球のあちこちの大自然や生き物たちを静かに淡々と流す番組を見ていた。こういうのは大学生の頃に眠れずにテレビをつけていると始まってしまう朝の訪れを感じさせる、わたしにとっては焦りと癒しが共存している感覚を思い起こさせる番組なのだが (結構好き)、久しぶりに見た最新版の映像の素晴らしさに驚いてしまった。ドローンを駆使して、人間が到底行けないであろう場所からの景色をたくさん映していた。映像の迫力もさることながら、自分は昔は大きな川や滝や谷に、こんなにも圧倒されなかったなあなどと思いを巡らせる。グランドキャニオンだって生で見たのに、テレビ画面に映る地球そのものの形がわかるような景色に、いまはもうこんなのちっぽけな人間にはとても対応できませんね、無理ですね、となっている。自然の本当の形を見るたびにお手上げだ。と思うしかない。
「流れ」などという言葉には収まらないような大きさの滝や川、まるでほとんど生き物のようだ。大量の水を見ると気持ちがぴりっと緊張する、こんなに大地と自然を畏れるようになったのは9年前からだろうか。先日も日記に書いたけれど、やっぱり都会には山や森が足りないから、すぐに忘れてしまうんだろう。わたしたちはいつでも、手におえないものに生かされているだけなのに。それって一番忘れてはいけないことなのにと思う。

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これはアメリカ大陸を縦断するハクガン。びっくりして思わず撮ってしまった。渡り鳥って一体どうなっているんだ、どこからどこまで一緒に旅する仲間だと認識しているんだろう。ちょっと離れてる数羽とかが気になった。まるで微生物のようで頭がくらくらする。音楽がとても良かった。あと、イグアスの滝とそれにつづく大きな河がすごかった。地球の端っこみたいな形をした滝。想像を超えている。。ユカタン半島マヤ文明の遺跡もテレビ画面から見ただけなのに震え上がった。ユカタンとは、現地語で「お前の言っていることが解らない」を意味する らしい。怖い。
とにかく地球はすごいんだ。知らないことが多すぎる。と夏休みの小学生のようなことを思いながら、明るくなった頃に眠りについた。海外旅行に行ける日はまた訪れるのだろうか。

 

関係ないがこのニュースも、なんか、うおおおってなってしまった。
ご神木倒れても奉納の剣は無傷 「奇跡の後にまた奇跡」

メモとして、GOTOに関してはこちらの方のブログが興味深かった。
感染した人がわざとマスクをせずにうつして回る、とか、ちょっとおかしな方向へ動く人がだいぶ見え始めたような気がする。